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スリー・バーラサイ バガバッド・ギーター

・スリー・バーラサイ バガバッド・ギーター(PDF)

ババのご聖誕日のスピーチ

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  • 2017年ババのご聖誕祭のスピーチ

  • 親愛なる中でも最愛の神の化身である皆さん!
    私たちはここで年に一度会い、わずかな時間をともに過ごし、また離れていきます。そのために、私たちお互いの関係はいつも新鮮で待ち遠しく、長続きするのかもしれません。
    皆さんは、インド国外や様々な地域から、様々な職業、立場にあってここに集まりました。多くの不便や困難を乗り越えて、ババの聖誕祭に出席しています。サンクラーンティ(テルグの祝祭)、ババの聖誕祭、そして、世界平和会議が開かれる新年の神聖な祭典に、私はあなたたち全員に、健康、幸福、平安と繁栄に恵まれた人生への豊かな祝福を惜しみなく与えます。

    愛の化身の皆さん!ヒンドゥーの国であるインドは、霊性、勇敢さ、犠牲的行為という観点において、地球上のあらゆる国々の中心地です。ここは、それらの偉大な徳を目にすることのできる究極の場所です。この点で、インドに匹敵する国は他にありません。この国の市民が今日享受している自由は、かつて国のために戦って命を失った無数の先人たちの偉大な犠牲の結果です。彼らと国への感謝を表して、皆さんは、この素晴らしく自由な生活を与えてくれた、自由のために戦った勇者たちに敬意を払って一日を始めなければなりません。
    キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、その他の宗教を信じる人であれ、どの宗教に属するかとは無関係に、霊性、平和の顕現、自己実現についての知識を少しでも身につけるには、とりわけ神性について知るにはインドに来るべきです。なぜなら、これができるのはこの国だけだからです。それは、神からのプラサーダム(神からの授かりもの)のようなものです。
    すべての宗教の起源は知られていますが、ヒンドゥー教の起源はわかりません。それは、永遠の時の中にいつもあったもので推定することも測ることもできません。最も太古の時代の宗教と言えます。その起源の時を推測することに成功した歴史家はいません。ヒンドゥー教も、その文化も遺産も、それは偉大です。技術開発、教育や様々な社会経済の分野から言うと、私たちは、古代からの文化を失うことなく、現在の世の中の最新のトレンドを吸収しています。 インドに住むキリスト教徒やイスラム教徒は、他国から移住したのではありません。ここで、ヒンドゥー教から改宗した人たちなのです。このような改宗による利益はありません。そうする代わりに、国の発展の助けとなり、その結果あなた自身が幸福になるよう、善い人間になる努力をするのです。
    今までの歴史を振り返って見れば、霊性を教える媒体として、特定の宗教を作った人は誰もいません。ラーマ神もクリシュナ神も、事実上すべてのアヴァターは、地球に降誕するとき、この神聖な場所インドを選びました。私たちの母国はそれほど偉大なのです。
    その他の宗教的預言者たちは、人間性についてのみ説教することができました。けれども、神のことや神性について知るために、ヴェーダについて学ぶために、自己実現(モクシャ)を達成するために、すなわち、あなたの真の自己について知るために、あなたはインドへ来なければなりません、これらを成すことができるのはインドだけです。過去に大勢の者が私たちの豊かな遺産の多くを荒らしました。私たちの国から財宝や富を持ち去った者もいました。それにもかかわらず、非常に貴重な価値のある文化、伝統や遺産が、私たちにはまだ残されています。この国だけでしか知ることができない霊性のために人々はやって来るのです。ヴェーダや古代のヒンドゥーの伝統についての知識を得るため、他の国々からの学生たちが私たちの大学に来ます。この国の人々の中には、自国の習慣や伝統の価値、ヒンドゥーの文化の重要性を実感できない者もいます。実際、西洋の文化や習慣、ライフスタイルに魅了され、より良い生活を熱望してこの国から外国へ移住する人々もいますが、そこは自分の母国ではないので、彼らは孤児のように死んでいかなくてはならないでしょう。私たちがここで達成し享受することができないものは、他のどの国でもできません。あなたたちが良い稼ぎをしても、手元に何も残らずに母国に帰って来る人もいます(平安も適切な定住も得られずに)。外国に滞在すると言う人たちは、インドに暮らす自分の親からピクルス、チャツネ・パウダー、ラサム・パウダー(インド人が料理に良い味を付けるために使う物など、たくさんの物を持っていきます。親は子どもたちが外国にいても少しも幸せではありません。大家族は個別になり核家族になっています。ライフスタイル全体が変わってしまいました。個人にも国にもこれによる利益はありません。彼らのルーツはここです。ですから、この国に属しているのです。自分のアイデンティティーを置き去りにはできません。

    ババは、これを説明するためにある物語を語りました。
    あるとき、一人の若者がグル(スワミジ;男性の師)のもとへ行き、祝福を受けて卒業試験に合格したと言います。彼は、自分のこの先の学業についてグルからアドバイスを受けるために来たと言います。グルは、若者に何に関心があるのか尋ねます。若者はアメリカへ行きたいと言います。グルは再度、アメリカへ行った後、何をするつもりかと言います。青年は、M.S.(理学修士)と呼ばれる課程を目指すと答えます。するとグルは彼に、それで何をするのかと尋ねました。彼は求職すると答えました。またグルは彼に、次は何かと尋ねました。彼は、皆がするように、自分も結婚して子どもをもうけて家族を増やし、その世話をすると言いました。これを聞いた後、グルは、それがすべて終わったらどうするのか聞きました。彼はほかの皆と同じように死ぬだろうと言いました。グルは、ほかの人と同様に最終的に死ななければならないならば、アメリカへ行くことの何が大事なのだろうと言いました。あなたは、自分の母国であるここで死ぬこともできるのです。少なくとも、あなたは、神の恩寵による解放の獲得という結果につながる功徳を得ることもできるのです。
    私たちの国の偉大さへの帰着し、多様性の中の合一性(一体性)がこの国で実践されれば、世界全体のロールモデルとなります。私たちは人を宗教で差別しないということです。私たちは皆、ここで調和して生きます。この国の実際の名前は、ヒンドゥー国です。後にそれがインドとして知られています。その純潔さを知るために、ババはカーシー(ヴェナレスとして知られています)を流れるガンジス川にたとえました。カーシーは、インドのウッタラーカンド州にある大変有名な巡礼地です。太古の昔から、リシたちは、カーシー(シヴァ神の寺院)を訪れ、神聖なるガンジス川の水をひと浴びする人は、そのすべての悪が洗い清められると言っています。その人は、解放に到達します。カーシーとガンジス川について、こう信じられています。そこは純潔さの居所です。このように偉大な川が私たちの国を流れています。この土地がいかに純粋であるかを理解することができます。私たちは、ヒンドゥーであること、インド人であることを誇りに思うべきです。
    ヒンドゥーの文化で私たちは、自然の中、岩々に、虚空に、火に神を見ることができます。雨をヴァルナ神と言い、火をアグニデヴドゥ(火の神)、空気をヴァーユ(空気の神)と呼びます。私たちは、神性を日々のライフスタイルの一部としているのです。それは、霊性を求めている者に、どんな場にも至る所に神を見ることを容易にします。 他の国々の子どもたちも石や鳥の名を持ちますが、ここインドでの特色は、様々なヒンドゥーの神々の御名を命名されることです。無神論者であっても、いずれかの神の御名なのです。それがヒンドゥー文化であり伝統なのです。お互いの名を呼びあうことは、何度も何度も繰り返し神の御名を唱える簡単な方法です。
    神はあらゆる場所にいます。偏在なのです。私たちの上に、周囲に、左に右にいます。ヒンドゥー教は、どこにでも存在している神を視覚化することを教えます。ババは、空気中に、水中に、太陽光の中に、善い行い悪い行いの中に、地獄そして天国にすべての場所にいる神は、セヴァすなわち奉仕の中に存在していませんか?という質問を投げかけました。トレーター・ユガ、クリタ・ユガ、そしてドゥヴァーパラ・ユガの時代に戻るならば、クリシュナ神とラーマ神は、平安(シャンティ)と愛(プレーマ)と各々の義務を遂行する正義(ダルマ)について説いています。ヒンドゥー神話の聖典であるバガヴァッド・ギーターでは、クリシュナ神自身は、いつであれ、どこであれ、ダルマが危ぶまれるときには自分が降臨してダルマの再建をすると宣言しています。
    神に祈るために古い慣習や儀式に従う代わりに、サイの帰依者たちは、私たちを解放へと導く霊性の新しい方法に従わなければなりません。不必要なゴシップで時間を潰す代わりに、何であれ私たちが他者に対してできる奉仕をするように努めるべきです。神は至る所に存在するのですから、もしも、あなたが仲間に奉仕するなら、それは神自身に奉仕することになります。神が満足して幸福ならば、神は豊かな祝福を私たちと私たちの親類縁者にも注ぎます。神は私たちの願望すべてと解放までも叶えるでしょう。すべては神の御手の中にあるのです。神は創造主ですから、すべてを神が管理しているのです。
    あなた自身の人生で、解放や救済を達成するための易しく柔軟な方法があります。
    人は死後に天国へ行くか地獄へ行くか、何が問題でしょうか。関わりのないことを考えなくても、私たちの奉仕を必要とする仲間たちがいるのです。彼らは、神々(天人)のような存在で、私たちの奉仕を受け、私たちを解放と善徳へと導く祝福を与えてくれます。彼らがいなければ、あなたたちはそれらを何も得ることはできません。
    人は皆、死後は天国へ行くことを考えます。けれども、あなたたちは天国とは何か知っているでしょうか。そこは、渇きも餓えも、何もすることも無い状態です。そこで一定の時間を経た後、人は不満を感じるようになり、この世に戻って来ること、ヒンドゥーの国に生まれて来ることを待ち望むようになります。インドには1000以上のテレビ放送チャンネルがあるために、私たちは混乱し、どれを見るべきかわかりません。つまり、数多のお祝いの場、たくさんの慰めや贅沢を享受しながら、天国では満足を感じないのです。餓えや渇き、欲望、睡眠や歓喜も無く、どうやってあなたたちは幸福になるのでしょう。ではなぜ、これを支持するのでしょうか。天国での滞在は、あなたの善徳の数によって限りがあります。やがて、この世に戻って来ることを避けられません。ではなぜ、カーストや信条、宗教などの制限を超えて、助けを必要とする人、貧しい人に対する奉仕が行われる、多くの平安と至福が得られる天国のような場所を探さないのでしょう。そこは地上の天国にほかなりません。私たちは、生きている間にすべて体験することができます。この体験から得られる幸福と満足の量を言葉で表現することは不可能です。私たちは、神と一体の状態を体験することができると言えるに過ぎません。そのような場所は、天国にも、そしてこの創造的な7つの世界にもありません。

    ババはある物語を語りました:
    昔、一匹の狐が神に真剣な懺悔をしました。神はその懺悔を喜び、狐の前に姿を現しました。望みがあるなら言いなさいと狐に言いました。狐は、のどが渇くことも空腹になることもない状態を求めました。神は、なぜそのようなことを望むのかと聞きました。少し経てばこの状態に不満が生じ、渇きや空腹を感じる元の状態に戻りたいと後悔するからです。だから、今あるすべてに満足して幸せでいなさい。けれども、狐は変わらず空腹や渇きのない状態を願いました。神はその願いを叶え、姿を消しました。願いを叶えられた狐は、とても怠惰になり何もする気がなくなりました。ほかの動物たちは食べるために狩りをして忙しいのに、この狐は空腹にならないので不精に横になっていました。起きて仕事をする必要がないのです。神が最初に言ったように、狐は退屈で仕方がなく、もう一度神に懺悔して祈りました。神は生来の空腹と渇きを再び狐に与えました。これと同じように、ババは、あなたたちに空腹がなければ、家族も子どもも持つ必要があるだろうかとおっしゃいます。この地球上の物質的な世界では、人に奉仕することで神に奉仕しましょう。ババは、ほかの様々なやり方を考えるよりも、解放のために行う霊的な実践として最善なのは、人類の同朋、祝福されたすべてのものに奉仕をすることです。奉仕は、この世界で健康で幸福で繁栄し平和な生活に導いてくれるのです、とおっしゃいました。
    私たちはほかの宗教も歓迎し敬います。若い人たちは、ほかの国々のライフスタイルに魅了されて、更にお金を稼ぐために外国へ移住するべきではない、と私は強調します。それよりも、あなた自身の国や仲間たちの進歩や発展に関心の焦点を合わせるのです。あなたたち自身の国の豊かな遺産や文化を大事にするのです。インドは多様性の中で団結していることでいつもよく知られています。私たちは、カースト、信条や宗教の壁を乗り越え、健やかで幸福な社会を築かなくてはなりません。ババはこうおっしゃって御講話を結びました。


  • 2016年ババのご聖誕祭のスピーチ

  • オーム・スリー・バーラサイラム

    バガヴァンは、2016年1月14日の56回目のご聖誕日にサンスクリット語の叙事詩によって、聖なるメッセージ(スピーチ)をお始めになりました。:
    Sarvamangala maangalye sive sarvardhasadhake
    Thrai ambike devi Narayani namostute
    親愛なる愛の化身の中の最も親愛なる皆さん!
    私は、すべての皆さんと久しぶりに会えることをとても幸福に感じています。ここにいる皆さんと皆さんの家族を祝福することで私の幸福を表しています。これらの祝福は、あなたたちを助けるでしょう。ある人たちには、それが問題を乗り越える助けとなり、またある人たちには、強い願いを満たす助けになるでしょう。そして、ついには日々の生活が幸福になり、最終的にはスピリチュアルな至福を達成します。
    距離や他のどんな不便さにも関わらず、あなたたちすべての人たちは、世界各地からここへやって来ました。このように皆さんに会えることが、私にこの上ない喜びを与えてくれます。その返報に、私は常にあなたたちと一緒にいることができるでしょう。私は何からも期待をせずに、自分のことは自分でやりますが、終生、奉仕をしているでしょう。神以上にあなたに仕える素晴らしい人を得ることはできないでしょう。結婚後、妻の幸福はあなたの責任です。しかし、どんな見返りをも期待せずに仕えるのは神一人です。神は誠実な祈りに自発的に応えます。すべての心配事や困難、あなたを煩わせるすべてのことを置いて、あらゆる面での幸福と成功を取り戻しなさい。
    本日、バーラサイ・セントラル・トラストを通して、ババはイスラム教徒のコミュニティに墓地用の土地を寄贈しました。ババがイスラム教徒に墓地用の土地を与えようが、キリスト教徒が教会を建てるための土地を与えようが、それは困窮している人々を助けるためのババの深い思い遣りに他なりません。
    クルヌールはババの生誕地なので、ババは常にクルヌールの人々の福祉のために何かをすることを望んでいます。6月にはクリケットのスタジアムが落成されますが、その土地もバーラサイ・セントラル・トラストによって寄贈されたものです。

    ババによって着手された他の大きなプロジェクトは、クルヌール地域のダム建築です。このダム建築の意義は、10ラック(100万)の家族、 1クローレ(1000万)の人々が年間通して絶え間なく飲料水を供給することのできる容量を有することです。州分割前*の前国務大臣のT.G.ベンカテシュ氏(Mr.T.G.Venkatesh)が、今、この壇上にいますが、彼がこのプロジェクトの認可に力を注ぎました。きっとこのダムには、ババの名が与えられるでしょう。ババは、ここにいる現在のM.L.Aモハン・レディ氏(Mr.Mohan Reddy;アーンドラ・プラデーシュ州の住宅担当大臣)にも、非常に多くの家族が水不足から解放されるよう、そして、この任務の完成に貢献したすべての人々に幸福が感じられるよう、このプロジェクトをより一層推進するように要請しました。彼らはずっと幸福でいるでしょう。一度、人が人生の各分野で高いレベルに達したならば、その人はそのポジションを維持するためにまた同様に社会に善いことをしなくてはなりません。 ババは、中央大臣ラムクリパル・ヤダヴ氏(Mr.RamKripal Yadav)にも要請を拡げました。権力を持つ政党は、ときどき変わってもよいと言いました。あなたたちが社会に奉仕しないとき、権力(例えば与党)は何のためにその力を使うのでしょう。5年間の在職期間中に、人々の福祉に努めるべきです。ババは、中央政府は私を生み出したクルヌール地域のプロジェクトに取り組まなくてはならないともう一度強調しました。ババは、若者が幸福になるようにクルヌール地域のクリケットスタジアム建築を計画しました。インドで行われるクリケットの試合後に、ババの名が同様に唱えられますように。
    太古の昔から、インドには、救済を得るため、あるいは神に到達するための様々な方法があり、人々によって行われてきました。ヤグニャ(Yagnas供儀)、ヤーガ(Yagas供物を捧げる供儀)、プージャ(Poojas礼拝)を行う人々もいれば、寺院やスピリチュアルな神殿などを建設する人々もいます。それらはすべて、カルマ・ヨガ(Karma Yoga行動の道)、ラージャ・ヨガ(Raja Yoga王の道)などの一部かもしれません。 例えば、ある指導者が、特定の選挙区になっている地域や州、あるいは国の中で選出されるとしましょう。その指導者は、彼を選んだ人々を自分の家族と見なすべきです。同様に、その地域の人々も協力し、彼を自分たちの父親と見なし、彼と一体となって働かなくてはなりません。もしも、選ばれた指導者と人民が、手に手を取り合って働けば、その地域ではどのような問題も容易に処理されることが可能です。


    神の化身たちには、それぞれの意義があります。同じように、ババの目的は、お互いの助け合いをさせることで、皆を一緒に引き上げることです。そうすることによって、私たちは、問題を乗り越えることのみにとどまらず、素晴らしい繁栄もするべきです。寺院等を建設することなどの方法では、皆が持っているわけではない多額のお金が関わります。ですから、最善の方法は、お互いに奉仕をして、社会の平和と繁栄を目指して行くことです。
    カルマ・ヨガは、人生の中に特定の段階(ステージ)に到達することを意味するのではありません。自分自身を変容させ、神の居所への道を開くチャンスを私たちに与えるものです。カルマは作用(働き、仕事)を意味します。ですから、何であれ、行ったことには、それに見合った結果があります。ババは例として、裕福な男性の話をしました。彼は、多くの富を持っていたのに、善い因のためにそれを使うことよりも、誰の役にも立たない不要なものに誤用することを好みました。善い個人となるためには善い心(ハート)を持たなければなりません。今日、私たちが恵まれているものは何であれ、善い行いの結果です。貧しいものへの奉仕、両親に仕えること、それに対する彼らからの祝福です。それらがすべて合わさって、今日のあなたたちの利益になっています。自分たちの以前の努力が、現在のあなたたちに利益を与えました。
    ですから、人類はいつも、助けを必要とするものに対し、自分にできるどんな方法でもよいから、手助けする努力をしなければなりません。必ずしも金銭の援助が必要というわけではありません。助けを必要とする人を、必要な助けを得られる適切な場所へ案内してあげなさい。あなたたちが若くて活気に満ちているとき、プージャ、瞑想またはセヴァ(seva無私の奉仕)のような善い行いを何かするべきです。年をとってからや、健康の問題を持ち始めてからでは、それができないでしょう。最近の人たちは、膝の痛みのために、椅子に腰かけてプージャを行います。将来はさらに悪化するかもしれません。はじめの頃、彼らは、手を上げてと言っていたものですが、今度は、健康状態が悪いために、脚を上げてと言わなければならないかもしれません。つまり、ベッドから起き上がることができなくなっているかもしれない、ということです。
    現在、人々は、財産を持っていても満足せず、幸福でもありません。神が与えたものが何であれ、その中で幸せでいなさい。あなたたちにできるどんなささやかな方法であってもよいから、他のものを助ける努力をしなさい。それが、私たちに与えた神への感謝を、私たちが表現する最善の方法です。奉仕の道に就きなさい。それは、あらゆる霊性修養の中で、究極の、最高の実践です。それを通して、あなたは「神の居所」に到達することができるのです。
    あなたの選ぶ活動で良いから、何か奉仕に加わりなさい。あなたは、ババに1ペニー差し出さなければならないわけではありません。1ルピーを、ババの名において乞食にあげなさい。一般的な用法として、私たちは乞食という語をとても卑しい言葉であるように使います。けれども、世間では、乞食が一人もいなければ、だれにも慈善を行うチャンスが無いのです。
    もしも、世界のすべての人が裕福なら、誰に、何かをあげることができるでしょうか。目に見えない神を探すよりは、むしろ貧困の人たちを助けようと努力する方が、神は直ちにあなたたちの善き行いに応えて、あなたたちを有り余るほど豊かに祝福します。自己のために生きる人は、("Manishi"テルグ語)、一般的な人間を表します。他者のために生きる人は、("Maharshi" テルグ語)と呼ばれ、聖人という意味を表します。ババの意見では、壇上にいる私の周りのすべての人々、または聴衆たちは、全員「聖人」です。すなわち、誰もかれも皆がなんとかして他者を助けているような聖人、または私の溢れる程に豊かな祝福を受ける人たちです。
    助けることができる立場に置かれているのに、貧困の人たちへ少しも助けをしようと思わないとき、人としての人生の中、こんなに悪い時期はありません。もしも、あなたたちが今日善いことをするなら、その善いことの対価を明日楽しみ味わいます。あなたが食べるものは何であれ、あなたと共に消えてなくなります。あなたが他者のためにすることは何であれ、あなたと共に存続します。私たちが食べるものは何であれ すなわち、肉体の強さや健康のために食べるものは、肉体がいつか灰に変わるように、私たちと共に消え去ります。しかし、他者のために尽くしたことは何であれ、セヴァを通して得た真価のように、あなたと共に存続します。
    善き言葉が、話す人に美しさを与えるように。
    同じように、貧困の人たちに手を差し伸べて努めることは、与えた人々の手に、指輪や他のどんな宝石でもなく、本物の美しさを与えます。
    神の化身を含めて皆、すなわち、神の化身もまたカルマの結果を受けなければなりません。
    もっともよい実例は、君主クリシュナです。
    猟師が森の中で動物を追いかける。クリシュナがそこにいることに気づかずに、猟師は獣をねらって矢を放つが、矢は君主クリシュナに命中する。彼は足元を射抜かれて死ぬ。
    君主クリシュナは、猟師の誤りではなく、それよりも数年前に、自分が森の中の猟師に矢を放っていた、と言います。彼は以前の自分のカルマの犠牲となりました。そのように、神の化身自身もこれらの結果から免れることはできないとき、人間に関してはどうだろう。ババは、目を覚ましなさい、起き上がって、あなたたちの行為と行動を自覚しなさいと言いました。だから、ババは、善くありなさい、善い行ないをしなさい、善いことを見なさいと、いつも言っています。
    貧困の人たちを助けようと努めなさい、あなたのすぐそばにいる人の手助けをしなさい、そして、意義のある、道徳的に正しい人生を送りなさい。
    カルマは何らかの形であるだろう。動物の姿かもしれないし、そうであっても、善き行ないの原因によって、動物が人間への生まれ変わりを成し遂げるかもしれない。ババは、カルマについてのよい例と、そして、ババの祝福でこのスピーチを結びましょうと言いました。インドでは、街路でたくさんの豚やバンディクートを見ます。彼らは、泥の中で何か探し出そうと、いつも地面を掘っています。ババは、前世において裕福だった人が、自分の財産を使って、誰ひとりも助けなかったと話しましたね。彼は、泥の下にこの資産を埋めました。こんな金持ちの人たちは、昔々に埋めて隠したお金を探し出すために、始終地面を掘っている豚やバンディクートとして生まれて来るだろう。セヴァ、セヴァをしなさい、ただセヴァだけをしなさい。人に仕えることは、神に仕えることです。
    ババは、これでババのスピーチを締めくくります。

    オーム スリー バーラサイラム

    (ご聖誕祭スピーチとお写真は、ババより直接送って頂きました。)
    州分割前*・・・2014年6月、州都であったハイデラバードを含むテランガーナ地域が分割され、テランガーナ州が新設されました。


  • 2015年ババのご聖誕祭のスピーチ

  • スリー・バーラサイ・ババは、サンスクリットの詩でスピーチをお始めになりました。

    親愛なる神の化身の中でも最も愛しい皆さん !
    ヒンドゥーの祝祭であるサンクラーンティ、ババの降誕日、そして新しい年の始まりに、世界各地から、そして、テランガナとアーンドラプラデーシュの二つの州から、皆さんはここに集まっています。 ババは非常に幸福です。
    皆さんがこうしてここに集まっていることは、私にとって何よりも幸せです。私の幸福の結果として、今日ここにいる政府高官の皆さんを、政治上の良い将来だけでなく、彼らの日常生活でも幸福と平安に恵まれるよう祝福します。
    私は、様々な異なる場所からここへ来た私の帰依者たちに溢れんばかりの祝福を注ぎます。物質的な(実質的な)生活を送るよう祝福し、正義の道を導きます。今より前に味わった悪い時期は、良い時期へと変化し、これが明るい未来に向けての礎となり得ます。
    貧困者を、あなたにできる方法で助けなさい。
    昔、人々は、救済のために、「シヴァ、…シヴァ」のように神の名を唱える必要がありました。けれども、「シヴァ、…シヴァ」と唱える代わりに、「セヴァ、…セヴァ」と、奉仕を意味するセヴァを行うことでも、救済に至ることができます。
    私たちはただ、貧しい人に奉仕することによって、幸福で繁栄した生活のために願うものを得ることができます。 もしも、私たちが仲間を傷付けたり、痛みを引き起こすことをすれば、それは何であれ、悪い行いと見なされます。 けれども、困窮する人を助ければ、それは善い行いと見なされます。あなたの目を閉じて、神のために詩を読んだり、プージャを行うなど、数々の儀式をする必要はありません。それよりも、あなたが持っている時間、物資や力量を生かして、困っている人を助けるよう努めなさい。 私たちは、貧困者を助けなくてはなりません。 私たちは、人々の幸福や健康を世話する意志を持っているリーダーを選びます。国の繁栄を担う人を首相に選びます。 すべてのリーダーたちは、その義務を誠実に果たさなければなりません。そうすることだけによって、彼らの地位は守られます。 しかし、自分の義務を無視すれば、彼らの政治的将来は危機に陥るでしょう。
    私たちのいる国は安全であるべきであり、私たち皆が属する州、もちろん私たちが普段いる様々な地域、そして、究極的には全世界が平和で繁栄しているべきです。
    地位や称号は変わらずにあっても、それを許される人々は時々変わるかもしれません。 地位を守るため、すべてのリーダーは社会のために善い行いをしなければなりません。 同じように、帰依者たちも、中央レベル、州レベル、あるいは自分の属する特定の選挙区で、自分たちの選んだリーダーたちが、 安全で危険のない状態であることを願っているべきです。けれども、私たちはそれについて話すだけではなく、行動し、実際に仲間達を助けなければなりません。もしも、誰かに問題があれば、その問題の解決策を提供するよう努めなさい。家にいて、同じ場所にずっと座って神の名を唱えているよりも、助けを必要とする人を助けるよう努めなさい。
    神の偉大な徳は、人を苦しみから救うことです。私たちは、神のその偉大な性質を吸収し自分のものとするよう努めるべきです。
    インドは世界の糖尿病の中心地になっています。人々は全体的にとても甘く(優しく)なっていますから、甘く(優しく)話し、人間性を愛しましょう。
    私は今日、ここに来た皆さん一人ひとりに特別な祝福を与えます。あなたたちに必要なのは、まず、物質的(実質的)な幸福です。 結婚しなければならない人たちへの祝福、結婚している夫婦への、良い子どもを授かる祝福、その他諸々の祝福、そして、政治家の皆さんに特別な祝福を与えます。ここで、私はナーヤカ(リーダー)であるだけでなく、ヴィナーヤカ神でもあります。 リーダーたちはこのステージ上で私の左右に座っています。 彼らは、何世代にも渡ってずっと神の帰依者です。 彼らは、私にとっては子どものような存在ですが、人々にとってはリーダーです。明日、議会で彼らは、クルヌールのダムの件を先へ進めなければなりません。ババは、クルヌール地区のすべての人々の渇きを潤すダムの建設に投資をする準備が整っています。
    政治上のリーダーたちは、自分の受け持つ地域や選挙民のことだけ考えるべきではなく、国全体の助けとなることを考えなければなりません。バジャンで、私たちは通常、「ローカー・サマスタースキノー・バヴァントゥ(lokah samastah sukhino bhavantu)」、すなわち、世界は幸福で平和であるべき、と祈ります。
    テランガナとアーンドラプラデーシュの様々な地区から来ている多くの人々は、いくつかの奉仕活動に参加しています。
    ババは、大規模な奉仕プロジェクトを実現させようとする人たちを助ける準備がいつもできています。ババはハイデラバードに広大な土地を所有しています。私たちは既にクルヌールに国際学校を建てました。次に提案されているプロジェクトはスーパー専門病院です。しかし、まずこのプロジェクトができてから、他の州にも私たちの奉仕を拡げていくつもりです。
    クルヌールは神の化身の聖誕地なので、クルヌール地方が最優先されます。稲を精米所に運び込むと、作業中に米と殻に分離されます。また稲を売って、お金にすることもできます。同様に、奉仕(セヴァ)を続けるならば、更なる多くの利益を得るのです。著名人がいるのなら、各自が社会のために有益な活動をするべきです。これが、彼らが高い評判を得ることができる唯一の方法です。
    もしも、私たちが昼夜バジャンやプージャだけを行っているならば、ババは幸福ではありません。私たちは帰依者として、ババに何かを捧げるべきです。それは、私たち自身への祈りだけに終始するべきではないということです。自らを慈善活動に従事させようとするべきです。私たちは、いつもババに私たちの願いを叶えてくれるよう請うています。それはまるで、神に1杯の牛乳を差し出して、2杯の濃いクリームをくださいと請うのと同じことです。しかし、これではうまくいきません。
    バラサイセヴァサミティのメンバーは、例えば、ディーナ・ジャナ・セヴァの活動に参加します:彼らは、月に2回癌病院の貧しい人に食物を給仕します。しかし、私たちは毎日規則的にセヴァをしなければなりません。バジャンを歌うだけではいけません、
    私たちは、真に私たちの助けを必要としている人々を助けなくてはなりません。なぜなら、セヴァや奉仕は、貧しい人々に仕えることをも意味するからです。そして、いつでも与え受け取ること。これが、どのようにして善いカルマを受け取ることができるかの方法です。けれど、助けが必要としている人たちだけを救うのです。自分で自分のことができる人の手伝いはしません。なぜなら、私たちのセヴァを受け取る値がある人がいなければ、解放も解脱も得ることはできないからです。
    古の時代、時の王たちは王国を統治するときに、統治民に気付かれないように王の衣装以外の服を身に付けたものです。昔々、普段着を着たある王が、臣民の幸福を調べるために大臣と共に領地に行きました。ある日、一人の男が王に近付いてきて、とてもお腹が減っているので、何も食べていないので、何か食べ物をくれないかと乞いました。王は、その男が食べられるような物は何も持っていないと答えました。結果、その空腹の男は失望し、拒絶されたと感じ、この世に自分を救ってくれる人は誰もいないと悪態を付きました。王は、そのような状況を体験したことがなかったので、慈悲心や親切心というような感情が自分の中にあることにまったく気付きませんでした。
    最近、多くの若者が親元や母国を離れ、お金を稼ぎ、そして、両親に送金するために他国に行きます。両親だけがここに残され、老後、面倒を看てくれる者も誰もいません。年老いたときに必要なのは、子供たちからの送金ではなく、子供たちの存在なのです。貧困者を助けることと同様に、私たちの救いを必要としている両親の世話をすることだけが、私たちを解放に至らせることができるのです。
    そのとき、その乞食は、馬から降りたばかりの体格もよく身なりもよい男のところに行き、何か食べる物をくれないかと頼みました。しかし、その男もまた拒否しました。その近くに、食べ物を持った老人がいました。彼もまた乞食でした。その老人は(空腹の)乞食にこっちに来るよう言い、自分が持っていた食べ物を分け与えました。そして、毎日自分のところに来れば、食物を分け合って一緒に食べることができると言いました。王はその始終を観ていて、その老人に沢山の恵みを贈りました。もしも、私たちが善い行いをすれば、神も同じようにギフトを与えます。善いカルマも積みます。神を喜ばせる唯一の方法はセヴァ(奉仕)です。家で神像を清め、お香を点けるだけならば、神は幸福にはならないでしょう。
    最後に、私が言いたいのは、共に同胞に奉仕をし、解放を成し得ましょうということです。
    ババはすべての皆さんを祝福します、皆さんの家族と共に幸福と豊かな生活を送ることができますように。これが、セヴァをすることによってババを支持する方法、ババがいつもあなたたちと共にいる方法です。私は、このことをあなたたちに約束します。皆さんを祝福します。


  • 2014年ババのご聖誕祭のスピーチ

  • ババは、冒頭でスローカ(ヴェーダ語の詩)を歌い、これに続いて次のように述べました。

    「私にとって、愛の化身であるとても大切な人々へ!」

    お前たちは今日、お前たちが愛するババの誕生日の祭典に参加するためにここにやって きた訳だが、お前たちは大変な気象条件や経済的問題や身体的問題をはじめ、何らかの問題を抱えている訳ではない。人間は誰でも、自らのカルマによってもたらされる結果を体験することになっているのだが、自分から進んでここにやってきたお前たち全員、それにこの祭典をテレビで観ている全員にたくさんの祝福を与えたい。私はお前たちに祝祷を捧げ、お前たちは幸福で満たされた人生を送るのだが、最終的な解放を求めるのであれば、窮地に陥っている他人をどのような形であれ、救済することによってお前たちの人生をさらに価値の高いものとするのだ!金銭を与えることができないのであれば、自然が我々に与えてくれる物を困窮者に与えればそれでよいのである。
    私は、政治やビジネスの世界で活躍するあらゆる人々に祝福を与えている。当然ながら、我々を取り巻く世界には多種多彩な商売を営んでいるビジネスマンがたくさんいる。彼らは、ババに何も差し出す必要はない。家族が健全な生活を営むことができるように、彼らはその資産と財を守り続けてくれることを願う!
    政治家には、何らかの形で国のためになってもらいたいと思う。彼らは、選挙の時になると政党あるいは他の活動のために金銭が必要となる。私は、彼らがそれを自分たちが生き延びるためだけではなく、地域と住民の進歩発展のために活用することを期待している。

    愛を具現化した大切な人々へ!

    昔から私は、同じ言葉を何度も繰り返し口にしている。私の言葉を実現し、その言葉に対する結果をもたらすことができるのは、私しかいない。このことを確認するために誰かが私の元を訪れたということは、これまで一度もないし、私が誰かに私の言葉を実現するよう依頼したこともない。私はただ言葉を口にし、その言葉に従い、それを実現しただけにすぎない。私はこうすることによってのみ、本当の解放と解脱(救済)に辿り着くことができるのである。私は、自分自身が到達できる、あるいは取得できる物は全て分け与える。これは、お前たちがなんらかの動乱とは全く無関係のままでいられることを意味している。お前たちの心配事や苦悩は私が引き受け、私がもたらす幸福と喜びはお前たちのものとなる。

    ここでババは、タミール・ナドゥの帰依者とイスラム教徒の帰依者、それに海外からの帰依者に対して、各々の言語で祝祷を捧げました。

    「心から愛する者たちよ、お前たちと一緒にいられる幸せに、ババは言葉もない。
    私の幸福は、お前たちとその家族への祝福をもたらしている。お前たちが全員、幸福で
    いられるように。だが私のことを忘れてはいけない。我々みんなが出会い共に過ごす時間は十分ある。おそらく明日の夕べも。私はお前たちを愛し、祝福を与える。」

    愛の化身!

    考えられないほど昔からインドがスピリチュアルな世界のリーダーとして知られていることは、お前たちも知っての通りである。どの家庭でも、自分自身と家族の無病息災、それに自らのスピリチュアルな世界を構築するために、スピリチュアルな祭典やプージャ(セレモニー、ミサ)や瞑想やヤグニャ (Yajnas)といったようなスピリチュアルな修行を行っている。

    神は宇宙を創造した時から、様々な形で地上に降り立っている。輪廻による化身でも神は、日常生活で我々を支援してくれている。表面的な生活だけではなく、永遠へと続くスピリチュアルな道でも支援してくれているのである。
    ダルマ(正義を行う、美徳の)の道に沿った人生を送ることによって、あるいは様々なサーダナ(Sadhanaスピリチュアルな修行)によって我々が解放へと到達できるための教えを説くスピリチュアルなグルはたくさんいる。
    こういう説教を聞くと人間は幸せを感じ嬉しい気持ちになるが、その教えを実践しようとはしない。
    社会と人間に貢献する存在は、シルディ・サイ・ババあるいはバーラサイ・ババだけではない。どんな人間もどんな形であるにせよ可能な範囲で貢献することはできるはずである。
    誰かが言っていたように、テランガナ地域やコースタル・アーンドラやラヤラ・セーマのババの帰依者たちもここにやって来ている。私は、彼らにも同じだけの祝福を与えたい。金銭はクルヌール地域発展のためだけに使うべきものである。何らかの事情によって、アーンドラ・プラデーシュ州が分割されることになったとしても、それでも私は祝祷を捧げる。発展しようとしている地域があれば、どこであろうと私はそこに祝福を与える。
    州の分割には、三通りの可能性がありえる。一つ目は統一アーンドラ、二つ目は分割されたテランガナ地域、そして三つめはラヤラ・セーマである。
    クルヌール市が元来の有名さを取り戻すことができるとしたら、あるいは独立したテランガナ州を形成することができ、統一アーンドラ・プラデーシュ州、または分割されたラヤラ・セーマを目指す崇高な根拠があるのであれば、私はこれを大々的に支援する用意がある。
    その場合には、政府役人がトラストの職員と接触することも可能である。
    普遍の愛という原則と同様に、神の面前では五本の指も一つの手も同じである。自然の状態で一本指があるとしたら、それは話にならない。一本指ではボールペンを持って文字を書く事もできなければ、銃を構えて撃つこともできない。全ての指が心と一体になって手は初めて機能することができるのである。調和のとれた状態で人間同士が一つにまとまれば、どこであっても常に発展し続けることが可能になるのである。私は、特定の地域の話をしているのではない。すべての地域で、同等の発展が必要だと言っているのである。

    この点についてよく考えてみると、ハイデラバートをアーンドラ・プラデーシュ州の州都として優れた教育とインフラ整備のために投資することに集中すべきであることが分かる。
    別の町が州都になるとしたら、同等の発展が必要となる。確かに州は分割することができるが、そうなった時でも我々は行政の制限とその合理性を見守っていかなければならない。発展や進歩から国全体の利益を導き出すことによって、みんなが幸福な人生を送ることができるようになるのである。

    どんなものであれ、誰かが受け取ることに決まっているものは必ずその人物が受け取る ことになっている。テランガナの人でも、コースタル・アーンドラの人でも、ラヤラ・セーマの人でも、誰もが成功を収め、子供は良い教育を受けて花を咲かせ、輝ける未来と繁栄を享受することができるのだ。

    ババは、個人的な資産は一切持たない。ここにあるすべてのものは、公的機関である福祉トラストのものである。公益慈善トラストという名称そのものが、公的なものであることを物語っている。お前たちのものを公的機関に手渡すだけのことなので、それが私にとって問題になることは一切ない。

    私はインドで生まれた。だから、私はどの地方かは考えずに常に自国の住民と発展に尽力してきた。ババの恵みと奉仕に限界はない。私は、どの地域にも属することはない。

    河川の特性と同じように止まることもなければ、自らの喉の渇きを潤すこともない。河川は自分自身ではなく、他の人の喉の渇きを潤している。樹木も自分自身で果実を楽しむことはなく、全てを我々に提供してくれている。降雨も同じで、降った水は全て我々のものになっている。自然は、実りを自らのために使うことはない。ババの所有物と恵みもこれと全く同じで、全てはインドのためである。

    私は、イギリス人が奪っていったインドの古い遺産と繁栄を取り戻し、それをインド人一人ひとりが健全な暮らしができるよう有効に利用していこうと努力している。ババが地域によって対応を変えたり、差別したりすることは一切ない!

    例えば、ある家族に二人の息子がいたとしよう。一人はハイデラバートに住み、もう一人はデリーに落ち着いた。母親にとっては、どちらも同じ息子である。兄弟の場合も、差別はないのである。

    何が起きようとも、我々は自分の国を発展させ続けていくだけである。我々は誰もが幸せでなければならない。他人といがみ合うことはやめて、幸せになろう!結局のところ、我々は全員インドで暮らしているのである。

    私は、国の発展と繁栄のためにこれまでずっと自らを捧げてきた。私の私有財産のことを心配する必要はない!ここでもう一度言っておきたい。クルヌールが州都になったとしたら、その時には私は町の充実と発展のため、持てる物全てを速やかに提供したい。

    貢献に話を進めてみよう。飢餓に苦しんでいる人間に講演を聞かせることが、何の役に立つだろうか?こういった人間に与えるべきは、果実か飲み物、最低でもコップ一杯の水である。そうすれば、この人間も満足し、お前たちが元気であり続けることを願うであろう。そうではなくお前たちが長々と続く講演を聞かせたり、無理矢理にメッセージを伝えようとしても、それに興味を示すことはなく、ただ不幸であると思うだけである。
    人間として生まれてきたからには、人間性と道徳性の価値を高めていくべきである!
    そうする努力は他の人のためになり、またお前たち自身に良い結果をもたらすことにも なる。お前たちが困難に陥った時、それが助けとなるはずである。

    私からお前たちに伝えておきたい話がもう一つある。

    賢人スミトラナンダは、森で暮らしていた。ある王国の軍隊指揮官は、いろいろと思案しているうちに浮かんできたある疑念をはらそうと賢人のもとへやってきた。指揮官は、賢人に天国と地獄といえる世界が本当にあるのか?と尋ねた。もしあったとしたら、そこを訪問して戻ってきた人物の報告があるのか、またそういった世界にも善と悪があるのか?と尋ねた。
    賢人は、いつもの彼らしく、指揮官にどのような職務に就いているのか?と尋ねた。
    指揮官は、ある王国の軍隊総指揮官であると答えた。
    すると賢人は、彼のような使えない人物を指揮官に任命する王国の統治者は無能な人物であると言った。
    それを聞いた指揮官は怒りをあらわにし、即座に刀を抜き、剣先を賢人に向けた。
    賢人は、怒りにまかせて刀を抜く行為は悪の仕業であるといった。そして、指揮官に
    改めて自分自身のことを考え直すよう促した。
    指揮官はしばらく考え込み、すぐに刀を鞘に納めた。
    すると賢人は、刀を納める行為は善の仕業で、これが天国であると言った。
    善の仕業である天国と悪の仕業である地獄、この二つは人間の内に存在するものである。
    我々は何らかの神や救済、あるいは天国や地獄を探すべきではないのである。我々は、今の暮らしを続け、我々に課せられた義務を遂行し、善い行いをすべきなのである。そうすれば、良い結果は自然についてくるものである

    怒りや妬みや恨みという特性は地獄であり、それは我々の内にあるものである。

    他者を助けたり、寛容であったり、平和であったり、あるいは忍耐力を示すことは、我々の内にある神聖な性質である。

    この話を聞いて悟りに達した軍隊指揮官は、賢人を崇めながら自分の王国に帰っていった。

    今ここに同席している帰依者は全員、プラサーダム(神聖なる食べ物)を取り、喜びにあふれた面持ちで、ババと共に家に帰るのである。
    ひょっとしたら私は、私自身を忘れてしまったのかもしれない。だが私が帰依者のことを忘れたり、ほったらかしにしておくことは絶対にない。お前たちは、私のためには何もしなくてよいのである。
    私は常にここにいて、お前たちの無病息災を思い、お前たちの役に立とうとしている。
    私は、お前たちが平和で実り多く、健康な暮らしを続け、人生の中でスピリチュアルな進歩を続けることができるよう、お前たちに可能な限りたくさんの祝福を与えよう。
    Om Sri Balasai Ram
    レギーネ・ヴォルケによるドイツ語訳

  • 2013年ババのご聖誕祭のスピーチ

  • ババは最初に(インド特有の韻律からなる短歌)シュローカを唱え、次のようにスピーチをしました。 プレマスヴァルプララ 神の愛の化身である皆さん

    新しい年の初めと国際平和会議、それにババの誕生日にちなんで、私は世界中の全ての帰依者たち、ならびに同席された皆様、そしてこのプログラムをテレビでご覧になっておられる全ての方々に祝福を捧げます。
    私たちは過去数年間、全てのハードルと障壁を乗り越えながら、たくさんの問題や困難な状況に直面してきました。この場で私は、あなた方とそのご家族の皆様があらゆる困難を乗り越え、幸福で平和であられることを祈念したいと思います。
    世界中のどの宗教も福音も私たちに同じことを説いています。どの宗教も私たち人間に対して正しい行動や振る舞いの規範を説いています。私たちが善い行いをすればプンヤ(ある行動で得られる効果、報酬)となります。私たちが悪しき行いをすれば、罪を犯したことになります。ダルマ(清廉潔白、美徳)は常にアダルマ(清廉潔白さと美徳の欠如)に勝ち続けてきました。映画でもまた、英雄が悪に勝利します。
    保守主義者も社会主義者も人道主義者も無神論主義者もテロリストも、何らかの宗教に従って行動しています。どの宗教も同じ真実を説いています。どの宗教も、信奉者たちにセヴァを勧めています。
    どんな人間も、その人なりのやり方とその能力に応じてセヴァを行い、それに対して神の祝福を受けています。物質的世界では幸福と満足がそれにあたり、スピリチュアルな世界では神との融和がそれに相当します。

    神の愛の化身である皆さん!
    古(いにしえ)の時代から聖人や賢者、それに聖なる書物も全く同じ真実を説きながらセヴァを推奨してきました。自己を犠牲にした献身は、実に偉大です。
    トレタユーガとドゥワラカンユーガでは、人間たちがヤーガス(祝典、生贄の儀式)やヤグナス(礼拝、儀式)やタパス(スピリチュアルな行動の実践)を執り行ってきました。カリユガで、私たちはセヴァを実践することによって、神の慈悲と祝福を得ることができました。これ以外のサーダナ(スピリチュアルなトレーニング)を行うだけの時間が私たちにはないためです。カリユガでは、神の名前を唱えればそれでよいとされています。しかし、これだけでは十分とはいえません。これだけでは、体の半分はまだ麻痺状態のままです。手を叩いて拍手の音を出すためには当然ながら両手が必要であるのと 同様、優れたスピリチュアルな結果に辿り着くためには、私たちはセヴァ、つまり自己犠牲的献身と神への賞賛と祈りを必要としているのです。

    古の時代には聖人や司祭が王様の加護の下で、スピリチュアルなトレーニングを実践していました。そういった時代には、何人かの王がこれを支援しました。しかし今日では、そういった王はもう存在しません。今日では、誰もが王のように振舞っています。誰もが働くことによって『ウォーキングキング』すなわち歩く王になりました。 自動車を所有している人は、盗難を恐れるようになります。自動車を所有できないからといって悲しむことはありません。そうではありません、足があることで幸福なのです。

    自分の足だけを頼りにしている人は、盗難を恐れる必要が全くないのです。
    ハヌマンはラーマに心から仕え、同時に神として敬い賞賛していました。その行いによって、彼は神になることができたのです。
    セヴァは決して大げさな勤めではありません。頭痛に苦しむ人に錠剤を差し出したり、寒さに震えている人に毛布を差し出したり、空腹に苦しんでいる人に食べ物を手渡したり、そのどれもがセヴァなのです。 昔あるところに誰もが驚くような絢爛(けんらん)豪華(ごうか)な寺院を建立するために何百万ルピーという大金を拠出する王様がおりました。寺院の近くで、ある老婆が拝観者や巡礼者に水を配っていました。ある日彼女に喉が渇いた状態のやせ細って今にも倒れそうな1頭の馬が近づきました。
    老婆が馬に水をやると、あっという間に元気を取り戻しました。それを見ていた全ての人が幸福になりました。
    その老婆と王様は、偶然時を同じくしてこの世を去りました。老婆は真っ先に天国に迎え入れられました。王様はこれに驚嘆し、神はなぜ王様より老婆を優先したのかとインドラに尋ねました。インドラはこう言いました。「確かにお前は善い行いと寺院建立のために多額の資金を寄付した。しかし彼女は命を救済した。だから彼女が先になるのだ!」

    セヴァは、ババの目標であり、また願いでもあります。
    ババの呼吸そのものもセヴァです。 最後のひと呼吸までババは、セヴァを行い続けます。
    ババは全ての子供たちに幸福な未来がくるよう、そして大人たちには長生きができるよう祝福を行いました。
    ドイツ語への翻訳はレギーネ・ヴォルケ女史が行いました